創業者 稲田二千武ヒストリー

ファミリーイナダの創業者であり社長である稲田二千武のこれまでの軌跡。成功や挫折を経験しながら今日まで半世紀に渡りマッサージチェアを作り続けて来たその歴史をご紹介いたします。

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両親の姿から「商売」の基本を学んだ稲田二千武

創業者である稲田二千武は、1940年11月24日に鳥取県は大山国立公園の中の大山寺で5人兄弟の末っ子として産まれました。

鳥取県大山国立公園大山といえば、中国地方でも人気の観光地、
そこでは当時、両親が民宿を経営しておりました。

民宿といっても客室12部屋で、旅館といっても良いぐらいのやや大きなもので、土産物屋も併設されていたため、小さな頃から二千武少年は、店番をしたり接客をしたりなど、両親の手伝いをしておりました。

まさに、この頃よりビジネスの素地ができたのでしょう。

独立心旺盛で、ビジネスの基本を体得する

1960年代になり、高度経済成長期の人手不足の時代となりました。

当時の若者は「金の卵」と呼ばれ、日本国中から期待される人材として、
大阪や東京などの都会へと集団就職していったのです。

二千武少年も商業高校を出て、大阪で就職します。
すでに高校で簿記2級、ソロバン2級という腕前を持っていましたので、
経理事務担当社員として腕をふるうことになったのです。

若かりしころの稲田二千武新卒で就職した先は、大阪市旭区の
橋本鉄工所という印刷機械メーカーです。

ここは、当時でも社員数150名を越す、
大変歴史のある会社でした。

残念ながら数年前、倒産してしまったのですが、
それでも100年を越す由緒ある老舗メーカーだったのです。

地元鳥取では「やんちゃ坊主」だった二千武少年も、
ここでは独立心旺盛な「稲田」青年として活躍します。

入ったばかりの初年度にも関わらず、稲田は経理マンとしてアグレッシブに仕事に取り組みました。
1年が過ぎる頃には、決算までこなせたぐらいです。
当時は今と違ってパソコン会計などありませんから、伝票も帳簿も、すべて手書き。

経理マンとして活躍する稲田単に数字を記帳しとりまとめるだけでなく、
「なぜ、利益が出るのか?」
「なぜ損失が出るのか?」
常にそういった追求をしていたのです。

この「ビジネスを本気で体得しよう」という姿勢に、会社も大いに期待をして、次々に新しいことをさせてくれました。

たとえば、入社1年後には製造部門を担当させてくれました。
同時に、資材担当者としても仕事をするようになります。
余った時間を利用して、営業にもいそしみました。

当時は丁稚という言葉もあったほど、雑用でも何でもやらなければなりませんでしたが、その枠を超えて、稲田自身がさらに、「あらゆることを、させて頂きたい」という意欲も強かったのです。

本来であれば、高校を卒業して間無しの18歳や19歳の子供に、そこまではさせてくれないものでしたが、彼の真剣さに会社も期待してくれたのでしょう。